昭和42年05月02日 夜の御理解
信心をしておかげを受けると、実にこれ程神秘的な、霊妙不可思議な事はないと、私共思われる様な働きを実際に見聞きするもんですね。不思議な事です。今日も、今御祈念前に末永さんがお届け致しますのに、丁度この午後奉仕の時間に、神様の心に叶います一日で御座います様にという、最近の親先生の御理解を思うて、どうぞ神様の心を、分からして下さい、分からして下さい。
と言うて、ここへ祈りよったら、あの頂く事が、お野菜のお供えがしてありますね。あのお野菜のお供えの中から人参、それから何かね、人参とキュウリそれとフキね、フキなんか一束をこうですたいね、御心眼と実際は違うけれども、それがお供えしてありましてね、それがバラバラと、こぼれ落ちたところを頂いた。考えてみると不思議な事ではないですか。どうぞ神様あなたの心にかないます、一日で御座います様にと。
昨日はどうも月次祭なんか遅くなりますから、どうしても親先生よりも先に休む。それがどうも心にひっかかってたまらん。親先生よりも早く休んだりする事があったりしたら、相すまんと思うてお詫びをしたり願うたりしておったら、それこそびっくりする様なおいさみを頂いた。椛目でこんな話は当たり前のごとの様に朝晩頂くのですから、当たり前の様になっとりますけれども。
実際その神様の心にその私共の心が、言わば心と心が触れ合うた時ですね、そこに霊妙不可思議な働きが始まるのですよ。ですからどうしても、その神様の心に触れる様な、私共の思い方とか在り方に、ならなければいけないのです。もう是は余談ですけれども、その事の御理解ですね、末永さんが頂いとります人参というのはね、あれは人参のお知らせは、野菜が真っ赤にしとります。
ですからあの顔が真っ赤になる様な自分でも、自分の心を思う時にほんに顔が真っ赤になる事がありましょうが、恥ずかしい事を思うたり人が見よらんといや恥ずかしい事を本当に、この神様が人が見ござったらどげん笑うじゃろうかと、言った様な事を私共がなしておる。それを人間だからね当たり前だというたらもうお終いなんですよね。信心は折角例えば久利というのはこのあれは久しい利とあの私はご理解に頂きます。
所謂お徳なんですだからフキというのは妙賀栄える富貴繁盛というて非常に有り難いお知らせです。妙賀のお知らせ、フキの繁盛はもうおかげのお知らせです。妙賀というのは、賀びの妙と字では、ご理解では頂きます。フキとは富貴と頂きます。そういう妙賀栄える富貴繁盛のおかげを頂けれるような元、そういう徳を受けよっても、さあお前がそんなに、自分で自分の心を恥ずかしいごたる事をしよったんじゃ折角の事が。
崩れ落ちてしまうぞというお知らせ。というてんなら私共がそういう聖人君子の様な神様の様な性格ばかりは、出来ませんから詫びに詫び詫び抜かせて頂いて、そこんところが、正常な在り方にならせて頂く事を、願って行くという態度が信心には必要なんだと云う事。考えてみると本当にそういう事でも、実に神秘的な不思議な事でしょう。ほんなこつじゃあるじゃろうかと思うてですね。昨日波多野さん所の典子さん。
娘さんが今度出産のおかげを頂きました。それで昨日お名前を頂きたいというてここへ出て参りましたけれど、大概なら直ぐ頂くんですけど、どんなにお願いしても頂かんのですよ。それでその私がこりゃ波多野さんどんなにお願いしても頂かんのだけれども、是はお父さんが付ける積りで、おるとじゃないのと私が申しました。主人の方が信心が御座いませんから、やっぱ子供の名前は、お父さんが付けたいと、言う様なものがあるのじゃないのと私が申しました。いいえそんな事はありません。
けれども、その息子ん時には自分が付け、娘ん時にはだれが付けタッチゃよかと言いよりました。はあ、それが気感にかなわんとばいと、私は申しましたですね。そうでしょうが、男だから女だからと言うて差別があるはずがありませんものね。それで男の子ん時には自分がつくる。女ん時にはだれが付けたっちゃよか。まるきり神様ば、そう言うような考え方でですたい。
成程波多野さん、それが神の気感に叶わんとよ、神様の心に叶わんと、だからここんところをお詫びさして頂かんといけんばいと言うて私は、あのお詫びさして頂いてから、神前に向かったら、もうすぐに頂くんですね。そしてご理解にですね、親の親の名を受けてと云う事を頂きました。だから合川寛子て言うんですね。カンていうのは、ウかんむりに見るですかね、広いというですね、寛大の寛です。
だから親の名を受けてと仰るから親の名を頂いて、それをヒロ子と私は読ませました。ヒロカン子と書いてありますお父さんは寛治というんです。ですから本当に合川寛子とってもいい名前ゴロもいいし有り難う御座いましたと帰ったんです。所が自分の所の息子さんユウゾウさんというのがこの若先生と友達のがおります。も時たま年になんべんかしか、参ってこん位の信心ですからもうお母さんの信心が理解出来ないのですね。
吉井辺りから毎日毎日参って来る、お母さんの気持ちが分からんのです。所がそのお兄ちゃんがたん今度赤ちゃんの名前を頂いて来たよ。カンというのをヒロ子と読めというてヒロ子とお名前頂いた。したらなんかつうと何処かへ行ったそうですもん。したらその本屋に行ってから字引を買うて来た。そしてその字引を引いてからやあお母さんお母さん、この寛という字は、こりゃあんた憲子ののりとも呼ぶばいというて、成程神秘的なもんだなあと言うたという訳なんです。
私も実はそれを聞いてから、はあそんなら( ? )実はお母さんはのり子と言うんです。神様は親の名を受けてと仰るが、父親のカンという字と母親の。のり子という字を一つで二つを受けておられる。カンジさんのカンを頂いてヒロ子と読み、んならカンという字はのり子の、のりと読むという訳なんです。お母さんのは平仮名の、のり子なんです。実に神秘的だなあと、こう言うたと言うんです。
考えれば考える程神秘的なもんですね。今日あの、私が伊万里の竹内先生達が夫婦で参ってみえて、あちらの御信者さんのお名前を頂きたい。その時も実に神秘的な事が色々御座いましたですね。それは、まあ後に譲りましょうけれどもですね、今日は私、その神秘的なと云う事をね、もう不可思議、霊妙不可思議な働きを受けられると云う事はです、お取り次を頂いて信心の稽古をさして頂いて、所謂神様の心に叶う。
末永さんが最近、親先生が仰る、親神様の心が分かりたい、親神様の心に添いたいと、こう願わして頂いておったら、そこんところを神様が喜んで下さる様に、大きなおいさみを下さった。そして神様の心が分かりたい、神様の心が分かりたいというて、祈らして頂きよったら心眼に人参とフキと何でしたかね、きゅうりを盛り付けをしてある、そのお野菜がバラバラとこぼれて行く所を頂いたとこういう。
神様の心に添いたいと云う事はですね、そう云う事なんです。神様の思いが分かりたいというのは、神様はどうぞ信心して、氏子おかげを受けてくれよと、いうのが神様の思いなんです。だから、それを頂くという事が、親の心に添う事であり、神様の心に添う事なのである。そこで、そのおかげを頂く為に、邪魔になる心を取り除かして頂く、と言う所に焦点をおかなければならないと、いう事が分かります。
そういう神秘的な働き。私は今日、或る方のお届けの、お取り次をさして貰った。もう長年ここで信心の稽古をしておる。体の調子が悪い。自分でも、その病気の名が分からない。家におっても入院しておっても左程に変わらない。私なら入院はさせんのですけれど、わたしゃ言うた事で御座いますけどもね、けれども子供達が折角親孝行したいと、病院に入れとるのだけん、子供の気持ちは受けんならんからね、と申しましたがね。
そん時に私が頂きます事がですね、病気じゃないと仰った。病気は無いと仰る。病気じゃないと、あるのは何かというと、あるのは神様のご都合があるのじゃと仰る。病気があるのじゃないと、あるのは神様のご都合があるのだ。例えば現在、私は糖尿病なら糖尿病しておるという事は、糖尿病という病気は実は無いのだと。 神様のご都合なのだと。私は現在、例えばここ一、二年間糖尿病でなかったら。
一年間例えば学院に入らなければならなかったでしょうね。だから(?)ご都合なんですけどもその反面には、是は神様が私に改まれよ研けよ糖尿病というのは糖が出る。甘いものが出るお前の信心は一寸甘いぞ。まちっとしゃんとせんかと言うておられる、そういうご都合があるのです私は糖尿病にしてみて一年間でも、例えば人を取次助けれる事の為の、ご用に使うて下さるというご都合と私にお前の信心は一寸甘いぞ。
しみじみせんか、しゃんとせんかと、お叱りの声として私が頂くならば、そういうご都合があるのであって、糖尿病という病気はないのだという事なんです。あるものは神様のご都合があるだけなのだと、とね。そういう様な例えば病気だけの事じゃありませんよ。皆さんが色々様々な、金が足りんとか、人間関係で難儀をしておるとか。けどもそれは実は難儀ではないのだ。それは、あるのは神様のご都合があるのだ。
そして氏子分かってくれよとか、病気のおかげで、実はこういう神様の働きがあっておるのだと、いうご都合があるだけの事ですから、ご都合をご都合と分からして貰うという事が、末永さんが頂いた神の心が知りたいというのがそれなんです。この難儀を通して神様の心が分からして頂きたいという事なんです。だからそこに焦点をおいていけば、おかげになる事が分かりますですね。
そうい羽陽名です、例えばおかげも只今申します様な、もう実に霊妙不可思議、な天地の親神様の働きが、金光大神のお取次によって、私共一人一人の上に、そういう風に現われているので御座いますけれども、信心がなかったり信心が薄かったりすると、それを病気だと思うたり難儀だと思うたりして、只その難儀から病気から、逃れたい逃れたいという事だけにあせる、あるものは神様のご都合だけなのである。そこにです、お互いが神様の働きの神秘的な働き。霊妙不可思議な働きというものをです。
身に感じさせて頂く所にです、有難いという日々がでける。同時に、その有難いという心に、添い奉らせて頂こうとする、精進も又楽しい事になってきて、日々が霊妙不可思議な、神様の働きの中に、有難い事じゃなあ勿体ない事じゃなあと、いう日常生活が送られると、いう事を私は思いますですね。椛目の方達はですね。こうやって朝から晩まで神様から頂く。もう神様、いわば直前のいうなら、神の声とも思われる様な。
こうしてご理解を頂いとるんですけども、もうそれは、もう大坪私が話しとる様な錯覚を感じる。ああ先生の話だという事になってしまう。それでは矢張り先生方のおかげしか頂かん。あれがそのまま神様のお声なんだと、神様の思いなんだと、しかも先生が神様から直接ヒントを頂かれたり、お知らせを頂かれたりして、私共に説いておって下さるんだ、という頂き方の中に、その霊妙不可思議な働きをです、皆さんの上にも頂き現して行く事が出来ると思うですね。
どうぞ。